誰がそう決めたのか、その《箱》は《パンドラ》と呼ばれていた。世界に災厄を撒き散らす神々の贈り物、と。
 開けてはいけないものと誰もが知っていた。だからこそ触れられずにいた。けれど神々のいた時代から幾千の時が過ぎ、神と人が共に暮らした時代が御伽噺とされて久しくなると、その箱の冠する名の持つ意味を畏れ敬う者はいなくなってしまった。
 人々は好奇心にかられる。語り継がれた物語の通りに。

 そして箱は開かれ、災厄は撒かれた。





「その上、最後の希望まで逃がしてしまったんだから、とんだ笑い種だな」
「…そうですね」

 言葉とは裏腹に、ウトガルド・ロキの声は柔らかい響きで大気を揺らす。上機嫌なかつての主[アルジ]の傍らで、ビューレイストは彼の腕の中を盗み見た。

「私たちにとってはこの上ない僥倖でしたが」
「あぁ」

 そこには、あらゆる意味での《希望》が眠っている。ビューレイスト自身やウトガルド・ロキにとっては勿論のこと、これからの世界にとっても、《彼女》は必要不可欠な存在だ。

「二度とこの腕に抱くことはないと思っていた。だからせめて、共にいようと望んだ」
「けれど運命は歪曲しました」

 もっとも、二人には世界に希望を与える気など更々ありはしない。二人にとって重要なのは、《希望》がその役目を果たすことではないのだ。

「もう二度と、その手を放さないことです」

 その《存在》を守ることが出来るのなら、他の何を――たとえそれが世界であろうと――犠牲にしても構いはしない。

「無論だ」
「…貴方には無用の忠告でしたね」

 その一点において、二人の意見は一致していた。

「なら私は行きます。規格外な貴方と違って、この世界へ留まるには器を必要とする身なので」
「あぁ」

 だからこそ安心して離れることが出来る。互いの胸に再会を危ぶむ気持ちは微塵もなかった。

「ではまた、」

 ただただ心待ちにしている。

「「魔女の棲む森で」」

 解き放たれた希望の目覚めを。





次は「く」
さりげなくシリーズタイトルを入れてみた
(怡楽[いらく]:喜び楽しむこと)